能登半島の真ん中に位置し、渚のいで湯として全国的に有名な和倉温泉や、様々なリゾート施設を有する能登島をはじめ、観光資源にも非常に恵まれた、魅力あふれる市です。 七尾市の観光情報やちょっぴりローカルな話題をご紹介していきます。

2012年2月7日火曜日

「第7回 七色の旅」七尾市観光かわら版

■今回は長谷川等伯筆「山水図襖」の話です。
私たちが住む七尾にある観光資源を再認識しようという企画、『七色の旅』。今回のテーマは、長谷川等伯筆「山水図襖」です。石川県七尾美術館では、毎年「長谷川等伯シリーズ展」を開催。没後400年となった平成22年には大規模な回顧展が開催され、東京国立博物館では約29万人、京都国立博物館では約24万人という観覧者数を記録。あらためて等伯の偉大さを知りました。
今回は等伯の作品の中でも、等伯の積極性があらわれた逸話が残る、京都市・圓徳院(えんとくいん)所蔵の重要文化財「山水図襖」をご紹介します。

■ 狩野探幽(かのうたんゆう)筆?それとも長谷川等伯筆?
本図は元々、京都市・大徳寺塔頭(たっちゅう)三玄院(さげんいん)の襖絵でしたが、明治時代に京都市・高台寺塔頭圓徳院の所蔵となりました。実はこの作品、当時は狩野探幽筆とされていたのですが、等伯研究で知られた土居次義(どい つぎよし)氏の調査により「探幽ではなく等伯の作品」と断定されたのです。当時は等伯の評価、人気は今ほど高くなく、探幽の方が著名であったため、土居氏はしばらく圓徳院立ち入り禁止になったとか…。土居氏のような研究者の鑑識眼、熱意があって、等伯とその作品は徐々に認められ世に出ていったのです。

■ 断られたのに、和尚の留守中に描いた?
京都の大寺院の一つ、大徳寺の襖絵などは、誰もが描けた訳ではなく、そのほとんどが大名などの御用を務める著名絵師の手によるものでした。もちろん、能登から出てきた等伯も、よほどの後ろ盾でもないかぎり、難しいことでした。しかし、等伯は40歳代頃千利休をはじめ堺出身の文化人たちと親交を深め、大仕事を獲得していったのです。
ちょうど名前を「信春」から「等伯」と改めて活動する頃の、記念碑的作品がこの襖絵です。等伯51歳、強い創作意欲と積極性を示す、興味深い逸話が残されています。三玄院の住職・春屋宗園(しゅんおくそうえん)に断られたにもかかわらず、住職の留守中に上がり込み、一気に描いたというのです。襖は何十面もあり、一部をサッと描いた後、戻って見た春屋の許しを得て、他の部分を描いたと考えられます。当時、春屋は大徳寺でも大変力を持った人物であり、その春屋に「認めてもらいたい」「きっと認めてくれるだろう」という、等伯の強い意志と自信があってのことでしょう。

■なんだかこの絵、雪景色みたい♪
この絵は、元々雲母刷(きちず)りで桐の文様が施された襖の上に描いてあります。デコボコしていて描きにくいはずなのに、なぜ断られても描きたかったのか…。「認めてもらいたいだけではない、何か特別な意味があったのでは?」とみられています。そこでいわれているのが、桐の文様を雪景色に見立てて描いたのではないかということです。この冬景は、桐文様がなければ余白が多すぎる景色に見えるでしょう。しかし、この桐文様が絶妙な余白の効果となって、見る者を引き付けます。少し離れて動くと、銀色にキラキラ光って見え、まさにぼたん雪のようです。

■ 今年8月11日~9月17日開催の「長谷川等伯展」で、この冬景を展示します(ただし、会期中前期・後期で表裏展示替えあり)。


■七尾市観光協会HP■